11月5日:毛玉
俺は本当に、子供のころから何も変わっていないと思った。
家の近所の交差点を渡ろうとしていたら、車のクラクションを鳴らされた。別に赤信号で渡っているわけでもないのにどういうことだろうと、少しムッとしていたら、その車を運転席の人物がこちらに向かって手を振っていた。よく見ると、小学校のころの同級生だった。いきなりのことに動転して「あ、安全運転ね!気をつけるんだよ!」なんて、なんの有難みもない返答をした。
俺は地元の公立中学校に進まなかったので、小学校の頃の同窓生との接し方が少しぎこちない。つまり、共有しているものが小学6年生までだからだ。小学6年生ともなると、エロの知識とかはそこそこ身につけてきてはいるけれど、せいぜい女性器の名前を呟いたりして一人でウヒョーと喜んでいるくらいだ。クラスの女子と付き合う・付き合いたいだとか、進路はどうしようだとか、そんなこととはまるで無縁の、まだ子供のうちに別々になってしまった。だから、小学生のころの同級生と遭遇すると、小学生のころの俺ってどんな感じだったっけと足場を確認しつつ接しているような感じで、くつ下がズレているような違和感がある。あ、ちなみに中学・高校は男子校に入ってしまったので、小学生以上に一番多感な時期を棒に振ってしまったけれど。
それにしても、俺と同い年の奴でもこうやって普通に自動車なんぞを運転しているんだと驚いた。まるでオトナじゃないか。地元で自動車を運転する同窓生に声をかけられるなんて、ちょっと青木雄二のマンガっぽい。そんなことを思いながら横須賀線に乗っていると、鎌倉で紙袋を持った女性が乗ってきて、俺の向かい側の席に座った。するとその女性は、紙袋から毛糸の玉を取り出して、いそいそと棒編みで何かを編み始めた。
そういえば俺って、小学生のころに手芸クラブに入ってたんだよなあ。今ではこんなにむさ苦しい成人男性になってしまったが、そのころは毛玉を自分で選んでマフラーを編んだりしていたのだ。冬はおばあちゃんの家に行くたびに、こたつで温まりながら新しい編み方を教わっていた。2本の棒を使って編んでいく、つまり「編み物」というと一般的にまず思い浮かぶような編み方を「棒編み」というんだけど、それはどうも苦手で、俺は先端が鍵っぽい1本の棒で編んでいく「鍵編み」をやっていた。
でも、なんとなく棒編みのほうが本格派っぽい雰囲気があって、事実、棒編みの方が色々なものが出来るらしいので、何度も棒編みに挑戦したんだけど、その度に挫折した。結局そのうち、受験などで忙しくなったのかなんなのか、編み物はやらなくなってしまったし、今では鍵編みの編み方も忘れてしまった。
その女性は手慣れた手つきで、ふわふわした毛糸を少しずつよりつつ、一方で棒を動かす動作は少しもつっかえることなくスムーズに編んでいって、あっという間に指の第二関節くらいの幅まで編み上がっていく。いいなあと思った。
今の俺はクルマも運転できないし、編み物もできないんだな。自分の給料でたまに寿司は食べられるようになったけど。ホント、それくらい。ああ、あと女性器の名前を叫んで喜んでいるのは今でも変わらない。
五十六世紀人たちのしゃべる言葉は、長い場合は猛烈にはやかった。――まるで昆虫の翅音のようにしかきこえない。一つ一つの単語をゆっくりきかせてもらうと、その中には二十一世紀の言葉が、猛烈に簡略化され変形されて、かすかな痕跡をのこしていることがわかるが、とてもききとれたものではない。その上、彼らの言語系の中には、数式や数字の概念が、たくさんとりいれられていて、とてもついていけたものではなかった。――日常の会話は、まったく静粛で、言葉すくなかった。というよりは、大脳前頭葉が二十一世紀人にくらべて極度に発達した彼らは、ほんの短い、間投詞のような言葉を投げかけあうだけで、ほとんどの意味が通じてしまうらしかった。しかし、長い議論になると、鳥のさえずりのような、せせらぎのようなせわしない声があたりにみちた。――彼が発見しておどろいたのは、五十六世紀人たちは、会話が熱をおびてくると、しばしば二人ないしそれ以上の人たちが、同時にしゃべりまくるということだった。最初はそれが受け答えになっているのかと思ったが、そうではないらしく、めいめいの人間は、相手のいっていることなどきかず、猛烈なスピードで自分の考えをしゃべりつづけ、相手のしゃべりつづけている話のうち、ほんの一つ二つの単語なりフレーズなりで、なにかこちらが展開している思考にヒントとなるようなものがあれば、それが相手方の展開している思考系列のなかで、どういう順序、または意味で組みこまれているかということとは関係なく、それをこちらの思考の流れにとりいれて、また新たな方向へ、自分の考えを展開していくらしかった。――つまり、彼らの議論とは、めいめいが相互に情報発信源になってのべつ発振し、何かめいめいにとってそのなかで、瞬間的に共鳴する情報だけがコミュニケートすればいいのであって、相手の考えを全面的[#「全面的」に傍点]に理解する必要はなかったのだ。にもかかわらず、そのやり方は、相互に共鳴し、コミュニケートする情報が、ある確率[#「確率」に傍点]でもって整理されていくことによって、りっぱに――むしろいちいち言葉の厳密さをたしかめて、煉瓦《れんが》のように論理を構築していく古いやり方より、よっぽど効率よく――相互の思考を進展させ、同時にめいめいがちがった側面において、新しい問題に達することによって、ひろがりを深めていくのだった。小松左京『神への長い道』 (via tokada)
僕はぬいぐるみをかわいがるように君をかわいがろうと思う。君はぬいぐるみなのだからなにもわからないし、表情らしきものもないし、ただかわいいだけでほかになにもしない。ぬいぐるみの末路はいつもゴミ捨て場だったりするんだけど、僕はそんなものが好きなんだ。そんなものしか好きになれないんだ。





